札幌は憧れの地
九州育ちの人は、たいていが富士山と北海道に憧れます。
私は新幹線に乗るといつも「今日は富士山が見えるだろうか」と新横浜を過ぎると緊張し、見えると嬉しい、雲がかかっているとがっかりします。
北海道の雪は格別です。札幌で三岸好太郎美術館に歩いていこうと思い、15分くらいで行けるはずとフロントで聞くと「歩いて行くのですか、寒いし遠いからタクシーで行った方がいい」と言われました。北海道の人間は歩かないし寒がりです。昔住んでいた都営住宅の札幌出身の隣人が「東京は寒い」を連発していました。
三岸好太郎美術館は北大植物園の近く、知事公館の庭園内にある小さな美術館で、隣の道立美術館にあった「三岸好太郎室」を節子が好太郎の絵を寄贈したのを機に建てられました。札幌は好太郎生誕の地です。
酒と女性で死を早めた31年
三岸好太郎は1903年に生まれ1934年に亡くなりました。31年の生涯で残した作品はわずか250点余り。それで20世紀の日本洋画壇を代表する存在となったのですから紛れもなく天才です。
「酒と女性」が死を早めました、絵の天才でなければただの社会不適合者です。社会不適合者としては他にもライバルはたくさんいますが、太宰治と東西の横綱を争うでしょう。絵の世界では大正から昭和にかけて日本洋画壇の革新的存在としてゆるぎない評価が今も続いています。
画風は転々と変わり、ピカソと時代が重なっていて、酒も女性も絵も貪欲な好太郎ですから勉強して知っていたでしょう。好太郎独自のピエロ、マリオネットを創作し、私の一番好きな「オーケストラ」(黒塗りの下地に白絵具を厚塗りし、そこに細い金属の先端で引っかいて描く手法をとっています。)は一見すると即興で描いているようですが、綿密なスケッチが残されています。
後期には貝殻や蝶々の象徴派風の絵画もあって、詩も書いています。最後は建築にも興味を持ってアトリエの設計をやり、建物は実現しないまま亡くなりましたが、その構想を取り入れた2階建ての小さな美術館は、絵画から音楽、文芸、建築まで造詣が深い好太郎の駆け抜けた短く豊かな存在を浮き彫りにしています。
1階ロビーには外の木立が見えるカフェ「きねずみ」があり、メニューも記念品も普通ですが名前にひかれ、コーヒーくらいは義務だろうと道立美術館の経営に貢献してきました。
好太郎が早く「死んでくれて」絵を描くことができた節子
夫妻が同じ職業であるケースは、俳優の場合は職場結婚みたいなもので多いのは当然ですが、「画家夫妻」は音楽家や作家に比べると少ないだろうと思います。
画家夫妻としては「原爆の図」で知られる、丸木位里・丸木俊夫妻が有名ですが、丸木夫妻は分野は違うのですが、二人で共同制作を行っており二人の名前での記念館もあります。
三岸夫妻は全く違います。三岸好太郎・節子を「夫妻」と呼ぶ人は少ないのではないでしょうか。
好太郎は「酒と女性」で死を早め、節子は好太郎の3倍、94歳まで旺盛な創作意欲を持ち続け、代表作と呼ばれる作品はほとんど60歳を過ぎてからです。
とりわけ死の前年、93歳の時に書いた100号の大作「さいた さいた さくらが さいた」は最高傑作です。
ピカソに近づいた女性が自死したように、好太郎の天才に近づいた節子が画家として伸びるのは好太郎の死後のことです。後年、マスコミの取材に答えて節子は「好太郎が死ななければ、好太郎の天分に押しつぶされて絵を描き続けることはできなかっただろう、死んでくれてホッとした」と言い、また「画家は長生きできるかどうかが勝負だ」というようなことも言っています。
誰か忘れましたが、あなたの代表作は?と聞かれて「代表作は明日つくる作品だ」と言ったという芸術家がいましたが、節子もその一人で昭和20年8月の敗戦後、わずか一ヶ月後に銀座で花を中心に描いた個展を開いて大評判となり、文化芸術は「不要不急の存在」ではなく社会発展に大きく貢献する力を持つことを存分に証明しました。自ら「花の画家」と言いましたが、画業は到底そうした括りでは収まりません。
代表作と評価されているのが60歳代以降のヨーロッパに移住した時から93歳の時に描いた「さいた さいた さくらが さいた」は夜の満開の桜を、歩けなくなった身で100号のキャンパスに描いたという鬼気迫る作品です。全く予備知識がないまま、たまたま愛知に行った時に一宮にある節子の生家跡地に建てられた美術館で見たときは衝撃でした。(続く)