芸術家は自分勝手である
三岸節子美術館は、愛知県一宮市の生家跡地にあるノコギリ屋根の美術館です。写真は大きく見えますが、それほどではありません。
この美術館は生家の敷地内にあった織物工場やベネチアの水路など、節子のイメージした通りに節子の生前に建てられました。札幌の三岸好太郎美術館とは「パートナー館」ということですが節子にそんな意識はなかったでしょう。
丸木美術館のように二人の作品を収めた美術館を建ててくれれば見る方は楽なのですが、そんなことを思うわけがありません。
一宮は繊維の問屋街で発展した街ですが、今は将棋の豊島将之名人と三岸節子美術館の方が有名です。
駅前に繊維の専門店が今もありますが他と同じく寂れていて、一宮市役所の人が、駅前に住宅を作り衣・食・住接近の街づくりを目指したいと魅力的なことを仰っていました。なかなか難しいだろうと思います。
福島県郡山市は、中心街にあったデパートが廃業した後の建物を、低層階を病院に上層階を住宅にしています。市民に大好評で市街地の活性化にも貢献しています。地道な都市づくりは各地で取り組まれているのでしょう。
優れた女流画家は長生きである
この表現は語弊があり、男性も「100歳の富士」を描き101歳で亡くなった奥村土牛のような画家はたくさんいますが、女流画家は相対的に少ないので目立ちます。
女流の三大日本画家と言われる上村松園(うえむらしょうえん・74歳)、片岡球子(かたおかたまこ・103歳)、小倉遊亀(おぐらゆき・105歳)はいずれも長寿です。丸木俊(88歳)と三岸節子(94歳)も長寿です。
上村松園は京都で三代続く名家、女性が描く美人画で有名です。小倉遊亀はテレビのドキュメンタリーで見ましたが、孫の女性が絵具や身の回りの世話を一手にして、絵を描きだすと食事も忘れるし、果物を描くと色が変わっても何日も描き続け、お孫さんから「おばあちゃん、もう腐るからやめよう」と言われてもなかなか手を止めず抵抗していました。周囲は大変だったろうと思います。
片岡球子は東京の地下鉄大江戸線の「築地市場駅」改札口にある大壁画「江戸の浮世絵師たち」の原画を描いています。壁画の前で外国の観光客がよく記念写真を撮っています。
駅の完成セレモニーがあった当時、私は築地の業界紙に勤めていて関心がないので行かなかったのですが、片岡球子が出席していたと聞き、行けば良かったと後悔しました。
球子も祝辞を求められたようで、取材した若い記者が「小さなお婆さんで声もボソボソとよく聞こえなかったのですが、あの人はなんですか」と言っていました。さぞ面白かったろうとまた後悔しました。
誰が名付けたか、好太郎・黄太郎・太郎
好太郎と節子の子息が黄太郎で画家、孫が太郎で画廊経営者です。
たまたま美術館に行った時、たまたま子息の黄太郎氏の講演というか、20人くらいを相手に母を語るというような企画があって聞きました。
あの二人の子供だから、さぞやと思ったのですが、画風も人柄も穏やかで、遺伝子的にはマイナス╳マイナス=プラス(激しい╳激しい=穏やか)になるのかと思いながら聞いていました。
節子は60歳を過ぎてから「日本と訣別する。本物の風景画家になりたい」と息子夫婦と共に突然フランスに渡っています。片田舎で20年以上住み続けた風景画シリーズも代表作ですが、その当時の思い出を黄太郎は「大変でした。車であちらこちら回って、突然、この村が気に入ったから、ここに住むと言い出しまして」と、淡々と話されていました。
南仏に20年、本物の風景画家になる
知らない土地に行って、こんなところに住みたいなと思うことは良くあることですが、実際にその場で実行する、それで20年住む人は少ないでしょう。
60歳を過ぎた高齢者が周りの迷惑省みず、異国に20年以上住み続け80歳を過ぎて健康を損ね(当たり前です)大磯のアトリエに帰り、90歳を過ぎても壺などまた新しいテーマで描き続け、93歳の鬼気迫る大作「さいた さいた さくらが さいた」をはじめ独自の人物像にも新たに挑戦し始めたところで力尽きました。
「お歳に不足はない」という言葉を使うべきではありません。どんな人でもどんなに長生きでも遺族にとっては一年でも長く生きて欲しい。本人も代表作はこれからだと残念だったろうと思います。あと数年生きていて欲しかったと思いますが、おそらく100年後も日本の洋画家のトップとして評価は高まっているでしょう。
息子の黄太郎氏も今は亡く、孫の太郎氏は画廊経営者です。上村松園の孫は画家になりましたが太郎氏は画家にならないで良かった。これは余計なお世話の感想です。