一心太助は小売買参人
元々「市場」(いちば)は、民・民の取引の場ですから、全てが民営市場でした。
しかし、古くから「座」や「株」によって一定の制約があり、誰でも自由に商売ができたわけではありません。行政の許可も必要でした。
例えば江戸時代の日本橋魚市場にも100人を越す問屋(卸)があり、10%の手数料をとって漁師から荷を集め300人以上の仲買に手数料10%をとって販売していました。
この商習慣は明治になっても踏襲され、大正12年の中央市場法によって開設された中央市場の水産、青果の卸売会社の法定手数料はともに10%でした。
(その後、10%では卸が儲けすぎるという政治的判断で何回か下がり、野菜8.5%、果実7%、水産5.5%となり赤字卸が増えたのですが法定手数料が上がることはなく、原則自由化・届出となりました)
江戸時代の大問屋(卸)は、船から魚を揚げるので川沿いに施設を持っていましたが、仲買は公道に板を並べて「一心太助」のような魚屋、今で言う「小売買参人」に売っていました。
これが「板舟権」と呼ばれ、築地市場の仲卸の前身です。行政の許可も得ていました。
公道上に「開市」の看板が出ると開市で、取引が終わるとその看板を引っ込めると公道に戻るという極めて簡単で、文字通り「市が立つ場」でした。
ロシア革命・米騒動・都市経済を支える「集団就職」
こうした一定の行政の関与の下に民・民の取引の場として機能してきましたが、突然、大正時代に入って国の力で「市場」を全て公設として管理運営しようという動きが強まりました。
① 1917年(大正6年)ロシア革命
② 1918年(大正7年)米騒動~公設小売市場
③ 1923年(大正12年)中央卸売市場法
④ 1971年(昭和46年)卸売市場法
⑤ 2018年(平成30年)改正卸売市場法(2020年施行)
公設による卸売市場を作ろうという動きは、1923年、大正12年に制定された中央卸売市場法です。
この法律は治安維持法を作った内務省が制定したことに示されているように、背景はロシア革命と富山米騒動によって起きた社会不安を、日本国内の食料安定供給によって治安を早急に回復することが目的でした。
ですから最初は公設の小売市場を作っています。今も各地に残っている公設の小売市場は大正時代にできたものです。しかし、価格は安定せず「卸売価格」に介入せざるを得なくなったことで公設卸売市場へと舵を切りました。
これはまた、近代化を急ピッチに進めていた都市経済の発展を支える食料政策という側面も持っており、この政策がみごとに奏功し、卸売市場は日本経済の発展と併せて急成長していきました。
こうした背景があるため、公設卸売市場は電気やガス、水道、鉄道と並び任意の地方公営企業として位置付けられました。
すでに地方公営企業の多くは民営化されていますが、卸売市場は公設のまま「民間活力」導入という方向になりました。
「市場会計の独立採算」という考え方は、この地方公営企業法に根拠を持っています。
卸売市場の民営化がどうなるか、それはまた別の問題になってきます。