科学的な話をしよう。
男性が小便をするときに体が少し震えるのは男性ならば誰もが覚えがあるだろう。
しかし、女性はそうしたことがないと70歳を超して初めて知った。
なぜ違うのか。
TVでゲストの医者が「男性に比べて女性は用を足すときに空気中にさらす肌の割合が大きく、体中との温度差が小さくなるからだ」と説明していた。
私は元来、素直な質だから専門家の話は大抵感心する。なるほど、ひどく感心した。
ところが、アレッと思った。私はずいぶん前から自宅のトイレでは座って用を足す。さらす肌の割合は同じである。それでも震える。
「違うじゃないか」裏切られた思いがした。
しかし最近は震えないことが多い。
外気温が35度とか、とんでもない気温の中を帰宅しトイレに入った時だ。
多分、体中の温度と外気の温度が変わらなかったのではないか。
最近の猛暑は、それほど自然の摂理に逆らうことなのだろう。
自然を制御しようとする科学に対し、自然がしっぺ返しをしている。
自然全てを敬い畏れる万物教の信者として、そう思う。
「敬い畏れる」と言ったが、「うやまう・かんしゃする」と「おそれる」を両方含んでいるのが「畏敬」であり同義語である。
何年か前にアメリカの人類学者が築地のことを書いて国際的な学会賞を受賞したが、その内容は「築地の業者が供養祭を行うのは生き物を殺した祟りを恐れるからだ。特に鯨はほ乳類だから念入りに供養する」といったレベルである。
寿司や和食文化がこれだけグローバルになっているなかで、人類学の研究者がこれほど皮相な見方しか出来ないことに愕然とした。
英語には「respect」(尊敬)と「fear」(恐い)を両方意味する畏敬のような言葉がないのだろうか。
人類は古来、他者の生命を頂いて自らの生命を維持する生物であり、他者の生命を頂くことの神への感謝が、今も、食事の時の「いただきます」という言葉にいきている。
供養祭も感謝の神事であることは日本人なら常識である。
黒澤明の映画「デルス・ウザーラ」は、ロシアの森林の狩人が主人公で、その原作(ノンフィクション)を読んだが、熊を仕留めた後は、まず山の神への供物と感謝をする畏敬の儀式を行う。日本のマタギとまったく同じであることに驚いた。
手元の辞書(大辞林)で「おそれる」を引くと、「恐れる・畏れる・怖れる・懼れる」があり、「恐れる」は「恐ろしいと思う。心配する」の意、「畏れる」は「能力の及ばないものをおそれ敬う」の意とある。
「おそれいる」を「恐れいる」や「怖れいる」と書くと「恐怖心」になってしまう。
全くおそれいってしまう。