全青協秋の大会にパネリストの一人として参加された富良野地方卸売市場株式会社(以下:富良野市場)の井山修社長に昨年、富良野でお話を伺った。
富良野市場の低迷を打破したのが10年前にJA富良野から入社、6年前に社長に就任した井山修氏である。現在は年商80億円まで回復し5年連続の増収増益を維持している。
井山社長は「従来の市場機能では生き残れない」と判断、民設化と産地市場の利点を活かした新規事業で市場活性化を実現した。10年間の取り組みは産地に近い中堅市場にとって多くの示唆を与えるものとなるだろう。(全青協25年2月号より)
―北海道は政治的、経済的に札幌中心ですが、市場流通においても札幌中央市場の一極集中が進んでいます。
そうした中、年商80億円で5期連続増収増益を続けている富良野地方卸売市場の取り組みが注目を集めています。
改正市場法後、手数料業者からの脱却と健全経営化が多くの地方市場の目標になっていますが、富良野市場ななぜ、どのようにして健全経営を維持できているのかを伺います。
はじめに富良野市場の概要をお話しください。
会社名 | 富良野地方卸売市場株式会社 |
本所所在地 | 北海道富良野市弥生町4番2号 |
敷地面積 | 7464.4平方メートル |
設立年月 | 大正14年8月 |
資本金 | 2,000万円 |
代表者 | 代表取締役社長 井山 修 |
従業員数 | 116名(パート含む)令和6年現在 |
取扱商品 | 生鮮・冷凍・塩干・食品・雑貨 |
グループ会社 | 農業生産法人 富良野ピュアテイスト(有) |
井山=富良野市場の概要は表1の通りです。
大正14年に「富良野魚菜卸売市場株式会社」として創立されました。
昭和25年に現在地に7464.4平方メートルを取得し移転、昭和40年3月に新市場において業務を開始しました。
昭和46年の卸売市場法により北海道卸売市場整備計画が策定されたことで昭和48年に名称を富良野地方卸売市場株式会社に変更し、翌昭和49年に富良野市公設地方卸売市場が開設されました。
その後は富良野地域の拠点市場として営業してきました。経営上は赤字ではなかったのですが苦しい経営が続きました。職員の皆さんにも十分な労働環境を築くことができない状況下で、私は60歳の時にJA富良野を退任し富良野市場に入社することになりました。それまでJA富良野として取引はありましたが、卸売市場に関わることになったのは初めてです。
―井山社長が就任された頃も市場環境は厳しい時代でした。どのように経営改善に取り組まれたのでしょうか、まず富良野市場に入社された当時はどのような状況だったのでしょうか。
井山=市場卸は初めてだったので余計に感じたのかもしれませんが、社会的な経済環境は厳しかったのですが当社の場合も多くの問題点がありました。私が就任した第73期事業までの経営状況は、赤字ではなかったものの、まさに瀕死の状態でした。
改善の第一歩は現況の市場環境が影響する雇用実態の検討です。
改善されてきていますのでお話しできますが、過酷な労働時間、倒産するかもしれないという不安、会社案内のパンフレットや自社のホームページもなく、企業理念もありません。この会社に入りたいという魅力はゼロでした。
そこで、すぐにできるパンフやホームページを作成し、サービス残業の温床となりやすい労働時間、社員が対外的に自慢できる制服、引き上げられる状態ではなかったのですが、明確な評価基準がない市内でも有数の低賃金の給与体系など、全ての改革を行ないました。
―厳しい雇用実態であったことはわかりましたが、解決するには財務的な経営改善が必要です。それまでの富良野市場の経営は何が足りなかったのでしょうか。
井山=富良野は北海道のほぼ中心にある「へその町」で四方を山に囲まれた大陸性気候のため昼と夜、夏と冬の気温差が大きく、最高気温は30℃前後で最低気温は-30℃前後、年平均気温は6℃となります。野菜や果物の甘みが増して美味しく育つ地域です。北海道で収穫されているほとんどの作物が生産されています。
しかし、富良野市場は産地市場としての優位性を活かすことができず、市場機能に特化した卸売事業が主でした。
私は、従来の市場機能に依存した事業経営では生き残れないと判断し、産地市場の利点を活かした通年の安定した売り上げの確保ができる柱となる事業と、そのための補完となる新規事業に取り組み始めました。
平成30年4月 | 富良野市公役地方卸売市場の民設化 |
平成30年10月 | 富良野市中五区に剥きタマネギ工場を設置 |
平成31年3月 | 富良野市中五区にタマネギ貯蔵施設を設置 |
令和2年12月 | 富良野市中五区に堆肥場設置 |
令和3年3月 | 富良野市中五区に剥き玉葱工場増設・貯蔵施設新設 |
令和5年3月 | ブロッコリー用製氷機及び選果ライン新設 |
令和6年3月 | 富良野市中五区に玉葱選果施設及び貯蔵施設新設 玉葱選果機(日/100t)を導入 |
―市場法上では産地市場の規定はありませんが、実質は、産地には二つの地方卸売市場「JA系の農協市場と産地市場機能と消費地市場機能を併せ持つ卸売市場」があります。
富良野市場は後者であり、井山社長はJA出身として産地市場の特性を活かした市場機能拡大をどのように取り組んだのでしょうか。
井山=産地市場としては、若干の洗い人参事業が夏季期間の売上事業としてあったものの、強力な柱となる事業にはなっていませんでした。
そこで、7月〜11月の期間、売り上げが確保できる人参の集荷洗い選別出荷を第一の柱として位置付け、8月〜翌年5月までの期間売り上げが確保できる玉ねぎの集荷貯蔵選別出荷を第二の柱として位置付け取り組みました。この二つの事業は私が入った10年前に比べ24億3千万円の売上増、4億7500万円の粗利増となっています。
この他に、ブロッコリー、アスパラ、馬鈴薯の集荷選別出荷の強化を同時に行い、年間平均した売り上げの確保が実現できました。
こうした取り組みによって売上拡大の柱が育ちましたが、卸売事業だけでは年ごとの豊凶の影響による収量の増減があり、さらに相場の高低もあって収益が大きく変動します。
そうしたリスクを補うために新規事業として付加価値を生む施設整備を平成30年の民設化以降、約27億円をかけてインフラ整備を行いました。このことによって、新しく取り組んだ柱と新規事業を合わせると、同じく10年前と比べ売上が35億円、粗利が5.5億円増えています。
さらに過去の卸売市場業務にはなかった異業種の導入もあえて行っています。
こうした新規事業の取り組みによって、加工食品事業は7億円、玉ねぎの皮むき事業は1.7億円、米販売事業は2.5億円と、それぞれ今後の柱となりうる事業に成長しています。旅行代理店は市場事務所でやっており窓口相談もできます。沖縄40人募集のツアー企画は大変喜ばれました。
米販売事業は、富良野市内にお米を精米販売する専門店がなくなりましたので始めました。寿司屋、ホテル、飲食用に分けたお米を販売しています。
富良野の人気寿司店「福寿司」社長がテレビに出て、お宅の寿司はシャリが美味いと言われたそうです。それを聞いた時は嬉しかったですね。地域共生とはこういうものだと思いました。外国の研修生の受け入れも富良野市場の欠かせない事業として取り組んでいます。
新規事業のもう一つの目的は、井の中の蛙(田舎のこの会社しか知らない)からの脱却を図る社内改革です。
異業種の営業パターンや、市場にはなかった業種の人材の採用、それまで実施されていなかった社員のスキルアップ研修、オフサイトミーティングなども階級ごとに導入していきました。
人事考課制度の導入も行ないましたが、これは考課者訓練が重要です。組織総活躍の基本は、管理職、リーダーのスキルアップがキーとなることを実感しました。
―もう一点、お伺いしたいのは、こうした新規事業を展開するスタートが平成30年の民設化であったということです。公設市場から民設化した市場は約20市場ありますが、卸売会社が自治体に要請して民設化したケースは多くありません。公設のままでは難しかったのでしょうか。
井山=民設化した最大の理由は、公設の事業制約からの脱却と、このまま従来の卸売機能だけでは生き残ることはできないという危機感からです。
施設整備のスピード感や手続きなどさまざまな事業制約もありました。
そこで富良野市に民設化のための資産譲渡を申し入れました。富良野市も私たちの地域社会と共生するという理念に賛成していただき、目的は一致していましたので平成30年に民設化はスムーズに実現しました。
富良野市からの条件は、地域への安定供給を続けるために10年間は市場事業の譲渡を禁止することだけでした。土地は簿価を下回らない「格安」で取得。施設は無償譲渡。固定資産税は5年間免除の支援をいただきました。
―最後に富良野市場が成長した取り組みを通し、今後の方向・経営展望についてお話しください。
井山=他市場の活性化に役立つかはわかりませんが、富良野市場が成長した主な理由をまとめると次のとおりです。
また社内の決め事として、次の三点を徹底するようにしています。
―ありがとうございました。