私は時々、研修会で講師を務める機会がありますが、そうしたときに気をつけていることは、自分が話すことは、あくまで主観的な意見であり、判断するための材料を提供するだけだという立場です。
そのために、なるべく具体的なケースを紹介するように心がけています。
そう思うようになったのは、かつて講演会等で聞いた言葉で気になる言葉がいくつもあったからです。
例えば「茹でガエル」や「じょろうがい」といった言葉です。
茹でガエルとは
「ぬるま湯にカエルを入れると最初は気持ちが良くじっとしているが熱くなって逃げるのが間に合わず死んでしまう。ぬるま湯に浸かっているような経営者は経営が危ないと気がついたときは手遅れになってしまう」という教訓話です。
今はこんなことを言う方はいないでしょうが、この言葉は二重の意味で間違えています。
一つはぬるま湯に浸かっている経営者は講演を聞きには来ませんし、お金を払って聞きにくる経営者は努力している経営者です。
「ぬるま湯に浸かっていてはいけない」は「食べすぎてはいけない」と同じです。
努力するかどうかではなく、どういう努力が可能かのヒントを求めているのですから何の役にも立ちません。
そもそも、人間は体温より少し高い程度で気持ちよく入浴できますが、カエルは変温動物ですから、ぬるま湯で気持ちが良いと思うわけがありません。他者の気持ちを汲めない言葉です。
ぬるま湯に入れられたカエルは、少しでも生き延びることが出来る温度を求めて、ジタバタしながら死んでいくだろうと、カエルの立場の私は思います。
茹でガエルより嫌いな言葉に「じょろうがい」があります。
これは平成10年ごろ言われていたと思いますが「女性と老人、外国人、つまり、じょろうがいが日本経済を支える」という言葉です。
いかにも気の利いた言葉であるかのようですが、これも、女性や老人、外国人が社会的に重要性を増すことは誰もがわかっていたことで、それをひとまとめにして「じょろうがい」と表現するところに自分以外をモノとして考える差別的な感覚がよく表れています。
この考え方は、人材派遣企業が派遣社員を「受注表」、「納期」として書類を作成、商品として扱う経営効率化に今も活かされています。
学生時代、高田馬場の公園で早朝、たき火をたいて人が大勢集まり、手配師が建設現場に送る人を選んで、夕方、高田馬場駅で現金を渡しているのを何回も見たことがあります。
怖くて近寄れなかったのですが、今考えると、その当時の手配師の方が今の人材派遣業よりも良心的だったのではないでしょうか、同じかな?